武田義信転記 第六巻
西上作戦
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正しさは、いつも誰かを置き去りにする。
二俣城は、まだ落ちていなかった。だが義信には、すでに落ちかけているように見えた。喊声がない。矢を射かける気配もない。城の中に、家康を信じ切れない腹がある。
家康は間違っていない。曳馬へ退いたのは、徳川そのものを残すための手だ。だが、その正しさは、二俣に残された者を救わない。義信はそこを突く。従わなくても殺される。従っても、捨てられる。ならば、徳川に従う値はどこにあるか。乱取りを禁じ、降った者を助け、蔵を焼かずに奪う。二俣は落ちる。欠下も、曳馬も。だが本当に崩れ始めたのは城ではない。徳川に従えば生きられるという、遠江の者たちの思いだった。
そして義信は、初めて海に触れる。
甲斐の塩は、人の背に乗って峠を越えてきた。武田は、ずっと誰かの道を借りて戦ってきた。浜名湖の湿った風を吸い込んだ時、義信の背筋に走ったのは、勝った熱ではなく冷たい確信だった。海は恵みではない。海には海の理がある。舟がある。湊がある。誰にも知られていない水の道がある。
浜名の名は残っていた。だが、佐久で腹を切った大屋政頼の名も、土地は忘れていなかった。
浜名頼広を戻せば、浜名の地は収まる。義信はそう考えていた。だが、名だけでは土地は動かない。誰が逃げ、誰が残り、誰が死んだか。それを土地は覚えている。義信は、名ではなく実を選ぶ。井伊谷では、家は残し道は取る。田原では、滅ぼされた戸田の名を火種として拾う。すべてに同じ答えはない。土地ごとに、線を引き直す。
宇津山は、湖に半分浮いた城だった。陸だけで囲めば、半分しか囲んでいない。
義信は、まだ武田が知らない水の道を、大屋政清に借りる。松平家忠は、正しく守り、正しく敗れる。捕らえられてなお、武田に降ることを拒んだ男を、義信は徳川へ戻す。死なせるより、伝えさせる方が効く。
本坂を越え、三河へ入る。西郷は道を売った。井伊とは違う。牧野は迷い続ける。信じず、使う。
酒井忠次は、任された城を最後まで手放さなかった。
吉田城の北で、忠次は退かなかった。二人を倒し、三人目に刺されても、膝をつかなかった。正しく生きた男の最期を、義信は見届ける。旗が城に上がる。だが、勝ったという熱は、義信の中にはなかった。国を残す戦は、ここからだった。
武田義信・徳川家康・松平家忠・酒井忠次・大屋政清・山県昌景・甘利信康が交差する戦国時代を舞台にした長編歴史転生小説『武田義信転記』第六巻。武田義信、浜名湖を閉じ、三河へ踏み出す編。