聊斎志異
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Publisher Description
(聊斎志異について)
『聊齋志異』(りょうさいしい、聊斎志異)は、中国の清代の短編小説集。作者は蒲松齢。 聊齋は作者の号および書斎の名であり、『聊齋志異』とは「聊齋が怪異を記す」の意味。内容は神仙、幽霊、妖狐等にまつわる怪異譚で、当時世間に口伝されていたものを収集して小説の形にまとめたものである。聊斎志異がいつ頃書かれたのかについて正確な所は分からないが、作者の没後約半世紀を経て刻本として上梓された。版本によって異同があるが、会校会注会評本では全十二巻五百三篇。
日本には江戸時代の後期に伝わり、翻訳、翻案がなされ、近代作家では芥川龍之介、佐藤春夫、木下杢太郎、太宰治などに影響を与えた。井伏鱒二も柴田天馬訳の賛辞を書いている。司馬遼太郎も初期エッセイの一節で、柴田天馬訳のファンだったと述べている。
安岡章太郎は、作者の生きかたとみずからの人生を重ね合わせた、『私説聊斎志異』(講談社、講談社文芸文庫 のち「作品集」岩波書店)を書き、小林恭二も日本を舞台とした『本朝聊斎志異』(集英社)を著した。
なお、澁澤龍彦も作品の中で何度か触れている。佐藤さとるは、翻案ファンタジー集『机の上の仙人 机上庵志異』(講談社文庫)を書き、手塚治虫は、後期の短編作品集『新・聊斎志異』を描いた。
チェコの作家フランツ・カフカは本作からの数編を翻訳し、その内容の「精巧さ」を賞賛した。
本作の一編「聶小倩」が、一九八七年にレスリー・チャン、ジョイ・ウォン主演で『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー/倩女幽魂』として映画化されヒットした。
(蒲松齢について)
蒲 松齢(ほ しょうれい、Pu Songling、一六四〇年 ‐ 一七一五年)、字は留仙または剣臣、号は柳泉居士。清代の作家、モンゴル貴族の末裔。聊斎先生と呼ばれた。
山東省淄川の地元の名家に生まれたが、父親の蒲槃の代には家業が没落し始めていた。また妾の子として生まれた蒲松齢は家の中でも地位が低かった。十九歳の時に童試を受け、県試・府試・道試にすべて首席合格して秀才となった。しかしその後の科挙にはことごとく落第し、四十六歳になって初めて廩膳生(奨学生)に選ばれ、七十一歳の時にやっと貢生の名誉を与えられた。蒲松齢はわずかな土地を持ち、生涯教師や幕僚などを務め糊口した。
一六七一年、同郷の孫蕙の幕僚となって江蘇省宝応県に行き、その後孫蕙に随行して高郵に赴き、翌年に帰郷した。その後畢氏の家塾の教師となり、四十年近く務め、七十一歳の時に家に帰った。一七一五年、不遇のうちに生涯を閉じた。
蒲松齢は二十歳から小説の執筆を始め、同時に話の素材の収集を行っていた。鄒濤の『三借廬筆談』によると彼は茶とパイプを傍ら置いて大通りに座し、道を通った者をひき止めては語らって奇異な事柄を収集し、気に入るものがあればそれを粉飾して文にしたという(ただし魯迅はこの話を疑っている)。こうして四十歳の時には十二巻・四百九十余篇に及ぶ志怪小説『聊斎志異』が完成された。聊斎志異の完成後も蒲松齢は同郷の王士禎の協力を得て文章の改易を続け、死の直前まで行っていた。聊斎志異は蒲松齡の死後刊行された。
王士禎は蒲松齡を奇才として高く評価し、『聊斎志異』の序文を書いている。『聊斎志異』は王士禎が評価したことで評判が高まり、広く流布するようになった。手稿は二百三十七篇分が現存し遼寧図書館に収蔵されている。これは中国の古典小説の中で唯一現存している手稿である。蒲松齡この他に詩、詞、散文、俚曲を多数創作しており、白話小説『醒世姻縁伝』の作者西周生は蒲松齡の筆名だといわれている。
(Wikipediaより抜粋)
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