押絵と旅する男
-
-
4.2 • 20件の評価
-
発行者による作品情報
魚津に蜃気楼を見に行った帰りの汽車で、“私”は車窓に額縁のようなものを立てかけている男に出会う。それは、洋装の老人と振袖を着た少女の押絵細工だった。まるで生きているかのような生々しさに息をのむ“私”に、男は「あなたなら分かってもらえそうだ」と、押絵の二人につい語り始める。老人は自分の兄であり、浅草の十二階から遠眼鏡で覗いたことがきっかけで、押絵の中に入ってしまったのだ……。
江戸川乱歩自ら「私の短篇の中ではこれが一番無難だといってよいかも知れない」と評した『押絵と旅する男』は、1929(昭和4)年の「新青年」6月号に発表された。前年に一度書き上げた原稿がどうしても気に入らず、名古屋の大須ホテルでトイレに原稿を破り捨ててしまったというエピソードが残されている。
押絵の中で夢と現実が交錯し、奇妙な恋物語を紡ぎ合う老人と少女。「愛と恐怖は紙一重」の夢幻世界がそこにある。
この作品には、昨今では不適切として受け取られる可能性のある表現が含まれますが、当時の時代背景、表現およびオリジナリティを尊重し、そのままの形で作品を公開します。
APPLE BOOKSのレビュー
江戸川乱歩による珠玉の幻想怪奇譚。『人間椅子』『鏡地獄』など、後の作品群に共通する「異常心理」のモチーフは、本編にその始まりが示唆されている。「私」はある日、魚津へ蜃気楼(しんきろう)を観に行った帰りの汽車の中で、風変わりな男に出会う。彼が携えていたのは、洋装の老人と振袖姿の美少女の押絵細工だった。しかも、押絵の老人の容貌は、髪の色を除けば男本人にうり二つだった。まるで生きているかのように精巧な出来映えに驚く「私」に、男はその押絵にまつわる身の上話を語り始める…。人形に恋するという倒錯的な愛を描きつつ、読者をじわじわと不安に陥れていく本作は、幻想と現実のはっきりしない境界を見事に表現した傑作である。語り手が聞き役に徹し、物語の真偽を曖昧にする構成は、エドガー・アラン・ポーに学んだとおぼしき“信頼できない語り手”の技法を思わせる。押絵というモチーフに込められた視覚的フェティシズムや性的倒錯も、乱歩ならではの趣向だ。本格推理作家として出発した乱歩だが、ジャンルの枠に収まらないその特異な個性は、本作においてすでに顕著である。日本のホラー/幻想文学の原点の一つとして、時代を超えて読み継がれるべき一編。